続 日本人力 2

戦後(第二次世界大戦後)の敗戦国リーダーの経緯

第二次世界大戦・・・
1939年9月1日から1945年9月2日
主な戦場はヨーロッパ戦線とアジア・太平洋戦線の二つ。
ドイツ・イタリア・日本の枢軸国(すうじくこく)を中心とし、ブルガリア王国、ハンガリー王国、タイ王国、フィンランド共和国、ルーマニア王国、フランスのヴィシー政権、独立スロバキア、満洲国、蒙古聯合自治政府対、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト社会主義共和国連邦、中華民国の5か国を中心とした連合国との戦い。

イタリアのリーダー『ムッソリーニ』のその後
イタリアの降伏後はヒトラーによる好意でドイツによる傀儡(かいらい)政権の首領となっていたムッソリーニは、ドイツ軍とともにドイツ国内に向けて逃亡中にイタリア国内でパルチザンによって捕えられた。
その後4月28日にパルチザンによって愛人のクラレッタ・ぺタッチとともに処刑され、その死体はミラノ中心部の広場において逆さ吊りで晒された。

ドイツのリーダー『ヒトラー』のその後
長年共にいた側近の多くが降伏、もしくは国内外に逃亡し追い詰められたヒトラーは、ムッソリーニのように死体を見世物にされたり、死体が宿敵のスターリンの手に渡ることを恐れて、4月30日にベルリンの地下壕内で前日に結婚したエヴァ・ブラウンとともにピストル自殺し(毒薬を飲んでとの説もある)、死体は遺言に沿って140Lもの大量のガソリンをかけて焼却処分にされた。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にカール・デーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチス党首および遺言執行人にマルティン・ボルマン党総務局長を指定した。


大日本帝国のリーダー天皇のその後
昭和20年8月15日、昭和天皇のラジオ放送によって、日本の敗戦が国民に知らされた。
「耐えがたきに耐え、忍びがたきを忍び、以って万世のために太平を開かんと欲す。」
この頃、天皇が愁(うれ)いていたのは、占領軍の方針だった。
天皇は、自分の臣下だったものが、戦争犯罪人として裁かれることを心配していた。木戸内大臣に天皇はこう漏らした。
「自分が一人引き受けて、退位でもして収めるわけには、いかないだろうか。」

昭和天皇の戦後の行動と御心

昭和20年9月10日
昭和天皇を戦犯として裁くことが、アメリカの政策である
との決議案が、アメリカ議会に提出された。
この決議案の背景には、アメリカ本国と連合国とに沸き
起こった、天皇の戦争責任を追求する世論があった。
9月中旬、新たに外務大臣になった吉田茂は、昭和天皇に招かれ、皇居を訪れた。昭和天皇の用件は、マッカーサーに会いたいということだった。

この頃の昭和天皇の考えが、内大臣の記録に残されている。
「天皇に対する米国側の論調につき、すこぶる遺憾に思し召され、自分の意志を、新聞記者を通して明らかにする」と。
このあと、昭和天皇は、アメリカ人記者2人を招き、
「日本の将来は英国のような立憲君主制がよいこと、日本は、再び戦争を起こさないための、必要な手段をとりうること」を伝えた。

9月26日付け、ニューヨークタイムズの見出し、「天皇、今は戦争反対だと語る」だった。
その頃マッカーサーは、会見を前に、昭和天皇に関するあらゆる情報を集めるよう、部下に指示していた。秘書官は、「我々は、昭和天皇について、徹底的に調べました。例えば、彼は、海洋生物学の権威でした。昭和天皇が、タバコ好きなことも知りました。そこで、マッカーサー元帥は、タバコを持っていくことにしました。こうして、元帥は、昭和天皇についての十分な知識を持って、臨むことができたのです」。

昭和20年9月27日
午前9時50分、昭和天皇を乗せた車が、アメリカ大使館公邸に向かって、皇居を出発した。
シルクハット、モーニングで正装した昭和天皇の表情は、同行した通訳は「非常に厳しいお顔だった」と回想している。
作家の工藤さんは「まず側近は、生きて帰れるかどうか心配したんですね。陛下は、決死の覚悟で乗り込んだわけです。日本の運命と自分自身、皇族の運命がかかっていましたからね」。

午前10時、車は、マッカーサーの待つアメリカ大使公邸の門をくぐった。
大使公邸の玄関には、マッカーサーの姿はなく、出迎えたのは、2人の副官だけだった。
マッカーサーは、この時、出迎えも見送りもしないと決めていたのである。
昭和天皇は、同行したくない大臣などと次の間で別れ、通訳と二人だけで奥の部屋に向かった。
写真撮影のあと、2人の会見が始まった。
その場で、どのような会話が交わされたのか、日米両国の政府は、未だに何も発表していない。
しかし、マッカーサーは、回想記にこの日の模様を記している。
「タバコに火をつけて差し上げたとき、私は、天皇の手が震えているのに気がついた。天皇の語った言葉は、次のようなものだった」。
天皇は「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」。
 「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである」。
 35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は変わっていた。
マッカーサーは、予定を変えて、自ら昭和天皇を玄関まで送った。
マッカーサーにとって、最大の好意の表れだった。

敗戦国となって打ちひしがれていた日本国民を、最初に精神的に支えたのは、人間宣言をした昭和天皇であった。
昭和21年2月19日
神奈川県を皮切りに、翌22年には近畿4県をはじめ、東北6県、甲信越3県、北陸3県、中国地方5県 精力的に全国巡幸をされたからである。
昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。行程は3万3千キロ、総日数165日、お立ち寄り箇所1411カ所におよんだ。

巡幸が開始された当時は「神ではない、ただの猫背の中年男」、「石のひとつも投げられればいい」と天皇の存在感を軽視していたGHQは、これを見て大いに驚いた。

当時の英国紙は・・・
「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地への巡幸において、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」と書き、驚嘆を表した。
天皇の余りの影響力に、昭和21年12月の中国地方巡幸の兵庫県における民衆の国旗を振っての出迎えが指令違反であるとしてGHQ民生局は巡幸を中止させたが、国民からの嘆願や巡幸を求める地方議会決議が相次いだため、昭和23年からの巡幸再開を許可した。

昭和24年5月22日の佐賀県基山町の因通寺への行幸では天皇暗殺を目的として洗脳されたシベリア抑留帰還者が天皇から直接言葉をかけられ、一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。
天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。
同地ではまた満州入植者の遺児を紹介され「お淋しい」と言い落涙した。
別の遺児には再会を約する言葉を残している。
行幸に際しては、食事についてなど、迎える国民に多くの生活に密着した質問をした。
行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の反対を押し切り「東北の農業は夏にかかっている」と農繁期である夏を選ぶなど、民情を心得た選択をし、国民は敬意を新たにした。
行幸先で労働者から握手を求められたことがある。
この時にはこれを断り、お互い日本人としての礼儀である辞儀をするという提案をして実行した。


イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。

日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。
イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。

つづく・・・
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by izasekikawa | 2008-03-10 00:34

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