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続 日本人力 4

あとがき
この「続・日本人力」のレポートは田端氏の最後のセミナーという意味も含め、講演内容を自分なりの見解と、その事実を調べあげまとめたものです。やや田端氏のセミナーに準じていない箇所もあるかと思いますが、田端氏は私たち日本人にはこのような深い悲しみを経験した歴史と、それを日本国のリーダーである天皇と共にたくましく乗り越えた事実をしり、その歴史としっかりと向き合い、自分自身は今後何をすべきなのか、私たち日本人はどう生きるべきなのかを深く考えなければいけない時期に来ているのではと思います。

最後に私たち日本国の国歌と世界の国歌の意味を比べて下さい。
日本『君が代』
日本の平和が細かい石が大きな岩になってさらに苔が生えるほどまで長く長く続きますように。

中国『義勇軍行進曲』
立ち上がれ!奴隷であることを拒む漢達よ!我らのまさに肉と血で、新たな長城を築こう。
中国国民は今、最も重要な時代にある!誰もが皆、力を合わせ対抗しなければならない。
立ち上がれ!立ち上がれ!立ち上がれ!
我々幾億万の民衆が心を一つに、敵の砲火に立ち向かえ、進め!
敵の砲火に立ち向かえ、進め!進め!前進だ!進んでゆけ!

アメリカ『星条旗』
おお、見えるだろうか、夜明けの薄明かりの中、我々は誇り高く声高に叫ぶ危難の中
城壁の上に雄々しく翻(ひるがえ)る太き縞に輝く星々を我々は目にした
砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中我等の旗は夜通し翻っていた
ああ、星条旗はまだたなびいているか?自由の地 勇者の故郷の上に!
濃い霧の岸辺にかすかに見える恐れおののき息をひそめる敵の軍勢が
切り立つ崖の向こうで気まぐれに吹く微風に見え隠れする
朝日を受け栄光に満ちて輝きはためく星条旗よ、長きに渡り翻らん
自由の地 勇者の故郷の上に!
戦争による破壊と混乱を自慢げに断言した奴等は何処へ
家も国もこれ以上我々を見捨てはしない彼等の邪悪な足跡は彼等自らの血で贖(あがな)われたのだ
敗走の恐怖と死の闇の前ではどんな慰めも傭兵や奴隷達の救いたりえず勝利の歓喜の中、星条旗は翻る自由の地 勇者の故郷の上に!
愛する者を戦争の荒廃から絶えず守り続ける国民であれ天に救われた土地が勝利と平和で祝福されんことを願わん
国家を創造し守り賜(たも)うた力を讃えよ肝に銘せよ 我々の大義とモットーは
「我等の信頼は神の中に有る」ということを勝利の歓喜の中、星条旗は翻る
自由の地 勇者の故郷の上に!
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by izasekikawa | 2008-03-10 00:40

続 日本人力 3

昭和天皇全国巡幸録

全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励ましたい

昭和天皇が全国御巡幸の決意を示されたのは、敗戦直後、昭和20年10月であった。宮内府次長加藤進氏に次のように指示された。
この戦争により先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考へ、また退位も考えた。しかし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。このことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ。ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだらうが、自分はどんなになってもやり ぬくつもりであるから、健康とか何とかはまつたく考へる
ことなくやってほしい。宮内官はその志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい。

「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」

昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・川崎工場であった。食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産していたが、空襲で70%の設備が破壊され、社員は必死で復旧に努めていた。
一列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。感極まって泣いているものも多かった。案内していた森社長は、天皇が身近な質問ばかりされるので、宮中で安楽な生活をされていたら、こんなことは口だけでは言えまい、と急に深い親しみを感じた。

二度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。大空襲で一面、焼け野原である。新宿では、昭和天皇の行幸を知った群衆が待ちかまえ、自然に「天皇陛下、万歳」の声が巻き起こった。
昭和天皇が帽子をとってお応えになると、群衆は米兵の制止も振り切って、車道にまでなだれこんだ。これ以降、巡幸される先々で、このような光景が繰り返された。

あつさつよき磐城の里の炭山に

昭和21年には、関東、東海地方の各県を廻られ、22年6月には、大阪、兵庫、和歌山。そして8月の酷暑の中を東北全県の巡幸を希望された。側近が驚いて、涼しくなってからでは、と延期を願ったが、「東北の運命(食料の増産)は、真夏にかかっている。東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て激励してやりたい」と許されなかった。
敗戦直後で、宿舎がままならず、列車の中や、学校の教室に泊まられた事もあった。「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」と言われて、行幸を続けられた。
出炭量の40%を占める重要なエネルギー供給基地福島県の常磐炭坑では、地下450mの坑内を歩かれ、40度の中を背広、ネクタイ姿で、上半身裸の鉱夫たちを激励された。深い坑内で万歳の声が轟いた。この時の御製(お歌)である。

あつさつよき磐城の里の炭山に はたらく人をををしとぞ見し


浅間おろしつよき麓にかへりきて

この2ヶ月後には休む暇なく、甲信越地方9日間の御巡幸に出られた。最初に浅間山の初雪の中を2キロも歩かれて、山麓の大日向開拓村を訪問された。大日向村は満洲への分村移民を全国で最初に実行した村である。しかしソ連の満洲侵略により、移民694名中、ようやく半数の323名が生き残って、村に帰ってきた。そして標高1095mの荒れ地を切り開いて、入植していたのである。
天皇をお迎えした開拓団長堀川源雄の奏上は、幾度となく涙でとだえた。
昭和天皇のお顔も涙に濡れた。

浅間おろしつよき麓にかへりきて いそしむ田人とふとくもあるか 
老人(おひびと)をわかき田子らのたすけあひて

この年、11月から12月にかけてには、さらに鳥取、島根、山口、
広島、岡山をまわられた。島根県では新川開拓村で3万人の奉
迎に応えられた後、伊波野村で農作業をご覧になられた。
農業会長が、働いている老夫をさして、「我が子を二人とも失いま
したが、村人の助けも得て、屈することなく働いております」と説明
すると、天皇は次のようなお言葉とお歌を賜った。
この度は大事な二人の息子を失いながら、猶屈せずに食糧増産
に懸命に努力する老農の姿を見、一方又、これを助ける青年男女の働きぶりを見て、まことに心うたれるものがあった。このやうな涙ぐましい農民の努力に対しては深い感動を覚える。いろいろ苦しいこともあらうが、努力を続けて貰ひたい。

老人(おひびと)をわかき田子らの たすけあひていそしむすがたふとしとみし


ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ

12月5日、広島に入られる。広島市では戦災児育成所の原爆孤児84名に会われた。原爆で頭のはげた一人の男の子の頭を抱えるようにして、目頭を押さえられた。
周囲の群衆も静まりかえって、すすり泣く。
爆心地「相生橋」を通過されて、平和の鐘が鳴る中を元護国神社跡で7万の奉迎を受けられた。
周囲には黒こげの立木、あめのように曲がった鉄骨が残る中で、天皇はマイクで次のように語られた。
このたびは皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思ふ。
本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒に思ふ。広島市民は復興に努力し、世界の平和に貢献せねばならぬ。

ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ たちなおる見えてうれしかりけり

この中国地方行幸にお目付役として同行していた占領軍総司令部民政局のケントは、原爆を落とされた広島の地ですら誰一人天皇を恨む者がいないことに、ただただ驚くばかりであった。
もともと天皇制廃止を目論んでいた民政局は、兵庫県で小学生達が禁止されていた日の丸を振ってお出迎えしたのを「指令違反」であるとして、以後の御巡幸中止を命じた。
しかし、御巡幸を期待する九州、四国地方からの嘆願や議会決議が相次ぎ、昭和天皇も直接マッカーサーにお話しされた模様で、翌々年に再開が許可された

子らに幸あれ

昭和24年5月18日から6月10日にかけては、九州全県を巡幸された。5月22日に立ち寄られた佐賀県基山町の因通寺には、40余名の戦災孤児のための洗心寮があった。孤児たちの中に、位牌を二つ胸に抱きしめていた女の子がいた。
昭和天皇は、その女の子に近づかれて、「お父さん、お母さん?」と尋ねられた。「はい、これは父と母の位牌です」とはっきり返事をする女の子に、さらに「どこで?」。
「はい。父はソ満国境で名誉の戦死を遂げました。母は引き上げの途中病のためになくなりました。」
天皇は悲しそうな顔で「お寂しい」と言われると、女の子は首を横に振って、「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子供は亡くなったお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土にいったら、きっともう一度会うことができるのです。・・・」
昭和天皇は、すっと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、3度と撫でながら、「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と言われた。数滴の涙が畳の上に落ちた。
「お父さん」、女の子は小さな声で昭和天皇を呼んだ。

みほとけの教へまもりて すくすくと生い育つべき子らに幸あれ


天皇陛下さまを怨んだこともありました

因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。「どなたが戦死をされたのか」
「息子でございます。たった一人の息子でございました」声を詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。・・・天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」
老婆は泣き伏してしまった。じっと耳を傾けていた天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。
引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。
「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」とお言葉をかけられた。一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。
天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。
この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺がまちがっておった。俺が誤っておった。」
シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵として、いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。
今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。天皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた。

復興のエネルギー

九州御巡幸では約190カ所にお立ち寄りになり、各県とも6、7割の県民が奉迎したので、約700万人とお会いになった。
御巡幸はその後も、四国、北海道と昭和29年まで続き、8年半の間に昭和天皇は沖縄をのぞく、全都道府県をまわられ、お立ち寄り箇所は1411カ所におよんだ。奉迎者の総数は数千万人に達したであろう。

戦のわざはひうけし国民を思ふこころにいでたちてきぬわざは ひをわすれてわれを出むかふる民のこころをうれしとぞ思ふ 国をおこすもとゐとみえて なりはひにいそしむ民の姿たのもし (*なりはひ=しごと)
大日本帝国が崩壊して、始めて国民は間近に天皇を拝する機会を得た。驚くべき事に、それは人々と共に悲しみ、涙を流す天皇であった。一人ひとりが孤独に抱えていた苦しみ、悲しみに、天皇が涙を流された時、人々は国民同胞全体が自分達の悲しみ、苦しみを分かち合ってくれたと感じ、そこからともに頑張ろう、という気持ちが芽生えていった。戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれた。
昭和63年9月、昭和天皇が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。40数年前の御巡幸で昭和天皇に励まされた人々も少なくなかったであろう。
昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われた。医師たちは、ご自分の命の事かと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭和天皇の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。

思はざる病となりぬ 沖縄をたづねて果さむつとめありしを

沖縄戦を指揮した太田実中将は、自決の前に海軍省に電報を打つ。
「一木一草焦土ト化セン、糧食六月一杯ヲ支フルノミナリトイフ、沖縄県民斯ク戦へり」と述べた後、県民に「後世格別ノ御高配ヲ賜ラン事ヲ」と訴えて、この電報を結んだ。

昭和天皇の「たづねて果たさむつとめ」というお言葉は、太田中将の「格別ノ御高配ヲ」という願いにつながっているかのようである。

日本国民はこの事実をどれだけ知っているのでしょうか。
天皇は125代、約2300年という世界最古の歴史を持っている。
スウェーデン23代・デンマーク54代・イギリス38代と天皇は桁が違う。

そして、トップとは天皇のように徳の備わった人でなくてはいけない。
徳を積むことは、日々の感謝、神、仏、先祖への礼を行う事。
企業は結局はトップの『運』次第。
その運をつけるのは神仏、先祖への感謝しかない。
日本の国旗は朝陽をイメージしています。ヨーロッパやアメリカは星です。太陽が昇れば星は消えます。太陽が世界を一つにする、民族、文化、性別を超えた世界が一つになるためにも私たち日本人がもう一度日本人らしく生きる事を考えなければいけない時期に来ています。世界を一つにする国としての自覚を持っていきましょう。

つづく・・・
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by izasekikawa | 2008-03-10 00:38

続 日本人力 2

戦後(第二次世界大戦後)の敗戦国リーダーの経緯

第二次世界大戦・・・
1939年9月1日から1945年9月2日
主な戦場はヨーロッパ戦線とアジア・太平洋戦線の二つ。
ドイツ・イタリア・日本の枢軸国(すうじくこく)を中心とし、ブルガリア王国、ハンガリー王国、タイ王国、フィンランド共和国、ルーマニア王国、フランスのヴィシー政権、独立スロバキア、満洲国、蒙古聯合自治政府対、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト社会主義共和国連邦、中華民国の5か国を中心とした連合国との戦い。

イタリアのリーダー『ムッソリーニ』のその後
イタリアの降伏後はヒトラーによる好意でドイツによる傀儡(かいらい)政権の首領となっていたムッソリーニは、ドイツ軍とともにドイツ国内に向けて逃亡中にイタリア国内でパルチザンによって捕えられた。
その後4月28日にパルチザンによって愛人のクラレッタ・ぺタッチとともに処刑され、その死体はミラノ中心部の広場において逆さ吊りで晒された。

ドイツのリーダー『ヒトラー』のその後
長年共にいた側近の多くが降伏、もしくは国内外に逃亡し追い詰められたヒトラーは、ムッソリーニのように死体を見世物にされたり、死体が宿敵のスターリンの手に渡ることを恐れて、4月30日にベルリンの地下壕内で前日に結婚したエヴァ・ブラウンとともにピストル自殺し(毒薬を飲んでとの説もある)、死体は遺言に沿って140Lもの大量のガソリンをかけて焼却処分にされた。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にカール・デーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチス党首および遺言執行人にマルティン・ボルマン党総務局長を指定した。


大日本帝国のリーダー天皇のその後
昭和20年8月15日、昭和天皇のラジオ放送によって、日本の敗戦が国民に知らされた。
「耐えがたきに耐え、忍びがたきを忍び、以って万世のために太平を開かんと欲す。」
この頃、天皇が愁(うれ)いていたのは、占領軍の方針だった。
天皇は、自分の臣下だったものが、戦争犯罪人として裁かれることを心配していた。木戸内大臣に天皇はこう漏らした。
「自分が一人引き受けて、退位でもして収めるわけには、いかないだろうか。」

昭和天皇の戦後の行動と御心

昭和20年9月10日
昭和天皇を戦犯として裁くことが、アメリカの政策である
との決議案が、アメリカ議会に提出された。
この決議案の背景には、アメリカ本国と連合国とに沸き
起こった、天皇の戦争責任を追求する世論があった。
9月中旬、新たに外務大臣になった吉田茂は、昭和天皇に招かれ、皇居を訪れた。昭和天皇の用件は、マッカーサーに会いたいということだった。

この頃の昭和天皇の考えが、内大臣の記録に残されている。
「天皇に対する米国側の論調につき、すこぶる遺憾に思し召され、自分の意志を、新聞記者を通して明らかにする」と。
このあと、昭和天皇は、アメリカ人記者2人を招き、
「日本の将来は英国のような立憲君主制がよいこと、日本は、再び戦争を起こさないための、必要な手段をとりうること」を伝えた。

9月26日付け、ニューヨークタイムズの見出し、「天皇、今は戦争反対だと語る」だった。
その頃マッカーサーは、会見を前に、昭和天皇に関するあらゆる情報を集めるよう、部下に指示していた。秘書官は、「我々は、昭和天皇について、徹底的に調べました。例えば、彼は、海洋生物学の権威でした。昭和天皇が、タバコ好きなことも知りました。そこで、マッカーサー元帥は、タバコを持っていくことにしました。こうして、元帥は、昭和天皇についての十分な知識を持って、臨むことができたのです」。

昭和20年9月27日
午前9時50分、昭和天皇を乗せた車が、アメリカ大使館公邸に向かって、皇居を出発した。
シルクハット、モーニングで正装した昭和天皇の表情は、同行した通訳は「非常に厳しいお顔だった」と回想している。
作家の工藤さんは「まず側近は、生きて帰れるかどうか心配したんですね。陛下は、決死の覚悟で乗り込んだわけです。日本の運命と自分自身、皇族の運命がかかっていましたからね」。

午前10時、車は、マッカーサーの待つアメリカ大使公邸の門をくぐった。
大使公邸の玄関には、マッカーサーの姿はなく、出迎えたのは、2人の副官だけだった。
マッカーサーは、この時、出迎えも見送りもしないと決めていたのである。
昭和天皇は、同行したくない大臣などと次の間で別れ、通訳と二人だけで奥の部屋に向かった。
写真撮影のあと、2人の会見が始まった。
その場で、どのような会話が交わされたのか、日米両国の政府は、未だに何も発表していない。
しかし、マッカーサーは、回想記にこの日の模様を記している。
「タバコに火をつけて差し上げたとき、私は、天皇の手が震えているのに気がついた。天皇の語った言葉は、次のようなものだった」。
天皇は「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」。
 「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである」。
 35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は変わっていた。
マッカーサーは、予定を変えて、自ら昭和天皇を玄関まで送った。
マッカーサーにとって、最大の好意の表れだった。

敗戦国となって打ちひしがれていた日本国民を、最初に精神的に支えたのは、人間宣言をした昭和天皇であった。
昭和21年2月19日
神奈川県を皮切りに、翌22年には近畿4県をはじめ、東北6県、甲信越3県、北陸3県、中国地方5県 精力的に全国巡幸をされたからである。
昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。行程は3万3千キロ、総日数165日、お立ち寄り箇所1411カ所におよんだ。

巡幸が開始された当時は「神ではない、ただの猫背の中年男」、「石のひとつも投げられればいい」と天皇の存在感を軽視していたGHQは、これを見て大いに驚いた。

当時の英国紙は・・・
「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地への巡幸において、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」と書き、驚嘆を表した。
天皇の余りの影響力に、昭和21年12月の中国地方巡幸の兵庫県における民衆の国旗を振っての出迎えが指令違反であるとしてGHQ民生局は巡幸を中止させたが、国民からの嘆願や巡幸を求める地方議会決議が相次いだため、昭和23年からの巡幸再開を許可した。

昭和24年5月22日の佐賀県基山町の因通寺への行幸では天皇暗殺を目的として洗脳されたシベリア抑留帰還者が天皇から直接言葉をかけられ、一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。
天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。
同地ではまた満州入植者の遺児を紹介され「お淋しい」と言い落涙した。
別の遺児には再会を約する言葉を残している。
行幸に際しては、食事についてなど、迎える国民に多くの生活に密着した質問をした。
行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の反対を押し切り「東北の農業は夏にかかっている」と農繁期である夏を選ぶなど、民情を心得た選択をし、国民は敬意を新たにした。
行幸先で労働者から握手を求められたことがある。
この時にはこれを断り、お互い日本人としての礼儀である辞儀をするという提案をして実行した。


イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。

日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。
イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。

つづく・・・
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by izasekikawa | 2008-03-10 00:34

続 日本人力 1

賢人塾塾長 田端 俊久氏 特別講演

3月6日に東京で行われましたので、スタッフとサロンの方と参加してきました。

平成19年11月27日『日本人力』というテーマで黒船カンパニー中村文昭氏の師匠とうわさされる田端氏の最後の講演会が開催されました。
その、『最後』という意味を講演開始早々私たちは田端氏の口か知らされることになったのです。
田端氏は悪性のガンを患っていらっしゃったのです。
そのため、わずかな命と講演活動は最後という事だったのです。
田端氏はその激痛をこらえながらの講演だったのですが、会場の時間の関係上、田端氏が参加者1,365名に伝えたい核心部分を語るには非常に時間が短く途中で閉演を迎えたのでした。
田端氏は何度も何度も私達にこの語りきれなかった核心部分については何らかの形できっちりとお伝えします。と言い残してこの講演の幕を下ろされました。
そして、今回の続・日本人力の講演となったわけです。
冒頭で田端氏は前回は痛みに自分が負けていた。
そのため、激痛が走るとさっきまで話していた話の内容が飛んでしまったり、また、講演の記録映像をみると、非常に暗い講演になっていた事を深く反省していると謝罪をされていました。
体重は前回の講演から約3ヶ月という期間で12Kgも減ったようです。
そして、その間沢山の方からガン克服についての治療法や、励ましの言葉を沢山頂いたそうです。
悪性のガンになった時、死ぬ事に関しては全く恐れも無かったそうですが、回復を望む方々のお気持ちに触れていくうちに、生きる事への執着の足りなさに気付かされたと言われていました。
そして、生きるという意志を強く持つ事が出来たとおっしゃっていました。
多くの方から受けた恩は必ず返すと、前回よりも元気な姿でゆっくりとそして力強く田端氏は語り始めました・・・

田端氏の語り
その1
お見合いの心得
★ひそひそ話をしない。(患者にはすべてマイナスの話として伝わる)
★見舞いも、結婚式も同じ気持ちで。
★笑いを与える。

確信1
現代の笑いは人をけなしたり、ひやかしたりして笑いをとっている。だから、どこか間違っている。
それに比べ、子供達の笑いはとっても素晴らしい。
その笑いは人を幸せにしてくれる。
笑いの質を考えよう。

その2
自分の心のあり方
心と肉体は一体であり、心の病は必ず肉体に症状として出てくる。つまり、肉体の病は心の病と同じ事。
死んだ後あの世になにを持って行くかを考えると、この世に必要なものが見えてくる。つまり、あの世に持っていけるのは自分の精神しかないと思う。
すなわち、命を進化させ精神を高めることが大切な事と思う。
生きる目的とは、すべてこれに尽きるのではないのかと思う。
仕事で成功を収めるために生きるのではない。
仕事を通して人格を高めることが目的。
人を愛するために生きるのでもない。
人を愛して心を高めることが目的。
肉体に現れた現象原因を見つめる時は、生活習慣の中に原因があったのではと考える。
ストレスの原因は自分の心の中にあったことが理解できる。
肉体は神からの借り物であり、死んだ後は肉体はこの世に残る。
つまり、肉体を愛する事は自分を愛する事になる。
痛みや、傷が現象として肉体に現れた時、自分の心のどこかに原因があって、その原因は結果として何を表しているかを考え、原因を見つけること。

確信2
自分がガンになった事は何故なのかを考えた。
自分がガンになりたいと思ってガンになったのではない。
自分の意思に反して何故なったのか。
誰かがいてそうさせたと思うことが自然である。
宇宙の営みを知らずに結果を考えるから分からない。
全ての結果は自然界の法則からそうなるべくしてなっている。

その3
自信
自信が無い時の克服の仕方

自信が無い時は自分でやっている気がしない時。
自分の意思が反映していない時。

確信3
自信を持つ事は
自分で決めたことを一生懸命、納得のいくまでとことんやり遂げた時に生まれる。
その時に心の生き方を確信できる。
すると、自分に神がついているという事を確信できる。
つまり、神から認められる生き方が出来ていると思えた時に自信が出来る。
正直・無私・無欲で誠を尽くす。

その4
親子の関係
親と子の関係は、両親と同居している事により、子はいつまでたっても子の精神状態のまま成長しない。
子の精神状態のまま結婚をするから、子供のけんかの延長で幼児虐待が起こる。
子を大人に育てるためには子を家から出し、金銭的援助等を一切やらない。
また、子の時期に経験しなければいけない事を必ず子の時期に経験させる事。

結婚できない人
・小さい頃に幸せな家庭像を見ていない。
・自分のやりたいことだけを優先して生きている。
しかし、やるべきことをやっていないと結果、やりたいことも成就できない。

確信4
現代日本は平等が行き過ぎている。
育児ノイローゼになる母親
昔は今より不便な世の中で、子供の数も非常に多かったが、育児ノイローゼ等だれもならなかった。現代は便利で子供も少ないにもかかわらず育児ノイローゼが出る。これは甘さが原因である。

その5
自然の摂理にのっとった男女関係
女性に神が授けた母性本能。子供を3歳まで育て上げる労力は男性の一生の仕事量に匹敵する。
女性は女性らしく、男性は男性らしく生きること。

確信5
『ロードオブザリング』を観る事
『沖縄県知覧特攻記念館』へ行く事
ちなみに・・・
知覧には1942年に太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開校し、1945年、沖縄戦の特攻基地となり多くの若者がここから飛び立っていきました。
館内には零式戦闘機や3式戦闘機「飛燕」、特攻隊員として若い命を終えた1035名の遺影、遺書、遺品等が展示され、敷地内の特攻平和観音堂には1026柱の特攻隊員の霊が祀られています。

『平和記念資料館』へ行く事
1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火が、この島々に襲ってきました。90日に及ぶ鉄の暴風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でありました。
沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされるものもありました。私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
この戦争の体験こそ、とりもなおさず、戦後沖縄の人々が、米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。
 ”沖縄のこころ”とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争に繋がる一切の行為を否定し、平和を求め、人間の発露である文化をこよなく愛する心であります。

日本について・・・
近代日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。
この驚異的な発展には、他の国と異なる何ものかがなくてはならない。
果たせるかなこの国の、三千年の歴史がそれであった。
この長い歴史を通して、一系の天皇をいただいているということが、今日の日本をあらせしめたのである。
私はこのような尊い国が、世界に一カ所位なくてはならないと考えていた。
なぜならば世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か戦いは繰り返されて、最後には戦いに疲れる時がくる。
その時人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主を挙げねばならない。
この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた、最も古くまた尊い家柄ではなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。
それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
吾々は神に感謝する、吾々に日本という尊い国を、作って置いてくれたことを。

                           アルバート・アインシュタイン

近代日本の驚くべき発展を賞賛し、来たるべき世界政府の盟主は日本が担うと予言している。

【予備情報】
この「予言」がアインシュタインのものではないという話は、2006年6月7日付の朝日新聞でも取り上げられ、その記事の中で、アインシュタイン研究を行っている板垣良一東海大学教授(物
理学史)は、「アインシュタインはキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、神にこだわらない人だった」とした上で、彼が残した日記や文献の上でも日本の天皇制に言及したものはなく、この発言を「アインシュタインのものではない」と断言している。

つづく・・・
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by izasekikawa | 2008-03-09 03:09